394.愛国心無くて日本国の再生なし |
以下、2006年9月21日の東京地裁に判決について、YOMIURI ON LINEから引用
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入学式や卒業式の国歌斉唱の際、教職員は国旗に向かって起立しなければならないなどとした都教育委員会の通達は違法として、都立学校の教職員ら401人が、都と都教委を相手取り、通達に従う義務がないことの確認や損害賠償を求めた訴訟で、東京地裁は、「通達や都教委の指導は、思想・良心の自由を保証した憲法に違反する」との違憲判断を示した。その上で、「教職員は国旗に向かって起立し、国歌斉唱する義務はない」と述べ、「原告は精神的損害を被った」として、請求通り、原告1人当たり3万円の賠償も認めた。判決は「日の丸」「君が代」について、「明治時代から終戦まで、軍国主義思想などの精神的支柱として用いられ、国旗、国歌と規定された現在においても、国民の間で中立的な価値が認められたとは言えない」と指摘した。
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この判決に常識で反論すれば、国歌斉唱時に、なぜ起立しなければならないか、というのは理屈ではないということです。例えばスポーツの国際試合の場で、親善試合であっても国と国とのぶつかり合いの時には国歌が流れます。日本人以外の国民は拳を左胸にあて、直立不動の祈りの姿勢で聞いている。外国ではそれがごく普通のようです。愛国心は自然に芽生える場合もあるがやはり初等教育が重要なのです。戦争は究極の国威発揚の場であり、地裁の判事が大東亜戦争の不幸な事例にまで言及するのは判事の個人的見解であって、それは法律論ではない。何も国の犠牲になれ、と言っているのではありません。しかし、村上世彰やハリーポッターの翻訳者松岡佑子のように、日本国からの課税を逃れようとする人が増えていけば、この国はやがて立ちゆかなくなる。日本国に育ててもらった、日本国にはお世話になった。この国には税金も納め、寄附もして恩返ししなければならない。それが国民として自然の感情ではないでしょうか。ところで、この国の破綻しそうな財政の不始末に対して、個人がどう向き合うか、それは、その次の問題です。
★記事追加:<国旗国歌>小泉首相が違憲判決に疑問(毎日新聞から引用)
小泉首相は21日、入学式や卒業式で日の丸に向かっての起立や君が代斉唱を強制したことを違憲とした判決について「法律以前の問題じゃないでしょうかね。人間として、国旗や国歌に敬意を表すというのは」と述べ、疑問を投げかけた。
★★「国旗、国歌と規定された現在においても、国民の間で中立的な価値が認められたとは言えない」とする判事の見解ですが、私にはそうは思えないのですが。判決は明らかにオカシイですね。都は断固、控訴すべきではないでしょうか。
強制することは違和感があります。
初等教育から徹底的に自国を愛し、指導者を
尊敬するよう教育している国はありますが、
それが必ずしも近代の民主国家として妥当であるとも
いえないような場合があるわけです。
文化や価値観、思想背景は時代と共に変遷していく
ものだと思います。ある時を境にその変遷可能性を
除去するべきではないというのが私の考えです。
それはファッショ以外の何者でもありません。
かといって、君が代や日の丸を無機質に眺めたり、反感を抱いて眺めればいいのかというと、それも違う・・・
日本人としてのアイデンティティーというか、シンパシーというか、親近感をもって感じてほしいという気持ちはあります。
世界史、日本史、外国語、日本語、地理、文化論、倫理・・・そういうものを一生懸命教育し、勉強すれば、自ずと自分のよって来るこの国やこの地方やこの町やこの家族に対する愛着が、自然に涵養されてくる・・・
「強制」しても何も得られない・・・涵養する性質のものではないかと思います。
意味での方便でしかありませんが、そしてその方便は
現代において極めて重要な役割を果たしていますが
ここに究極であるとか、意味そのものをみようとする
人々は確実にいて、それは構わないのですがほとんどの場合
同種の見方のみに正当性を語るわけです。
世界解釈を異にする可能性や可能性の根拠すら思い
描くことが出来ないのでしょうけれど、
問題なのはそのことではなくてその潮流のほうでしょう。
日本の風土、習慣、文化、良いものを持った国だと思います。
気に入らないのは、公務に携わる人の中で、私欲が目立ちすぎることですが、これは、最近のネットの情報が発達して、みんな暴露された結果かもしれません。
夏目漱石が書いてましたが、「役人は江戸時代から変わらない」私は、今も変わらないと思っています。
ただ、バカなマスコミが、煽り立てて、バカを先導するのはやめて欲しいですね。
国旗・国歌問題について
伝統には守るべき伝統と歴史的反省から淘汰されるべき伝統があると思います。始まりがあれば必ず終わりが来るのは自然の摂理です。私は、これだけ根深い問題なら国民投票によって新しい国旗・国歌を作るべきかあるいは現存の国旗・国歌を踏襲すべきか問うべきだと考えます。
現在に至るまでの為政者たちの不信が全てを招いています。(財政・年金・政務調査費の使い方・箱物行政等は特に顕著です。)今さら国を愛せと言ってもどれだけ長い年月の間国民を裏切ったのでしょうか。私自身は日本と言う国はとても大事に思っています。ただ今の統治機構は一度崩さなければならないと考えます。公務員の組織の中でも、(タテ組織である自衛隊・警察組織などでも)内部矛盾・反目の拡大が起こっています。話を元に戻しますが、これからの日本の教育とは何か?目指すべきところは?・・・答えは統治者の都合が良い様に国民を育てることです。
日本が天皇制をしいている時点で生れながらにして日本国民は不平等であるからです。
私もこれを支持していました。(ちなみに私は無党派です。)先日、昭和天皇のご発言メモなるものが出てきたときからは、昭和天皇と現・天皇を尊敬しています。(やはり戦争体験された方の考えには私も多分に同じです。「再び日本に戦争の惨禍が起こってはならない。」この一点です。)今後後世の天皇にその意志が受け継がれることを望むだけです。
国旗、国家はその成り立ちを議論しないので未だにもめているのだと思います。君が代の「君」とは天皇ではなくて九州博多の豪族説、日の丸も幕府の印だった説が濃厚なので、天皇制から離れて議論すればいいと思います。個人的には君が代はタラタラしていて嫌いです。
こういうやり方は間違っている、このままじゃ愛する日本は悪い方向にどんどん行ってしまう、だから反対せねばとなるのです。
あえて裁判までやってるくらいなのだから、原告はあなたより100倍は愛国心に満ちているでしょう。
「愛国心」があれば「(何でも入る)」なんて、人間として当たり前なんですがね....
国旗・国歌を強制することが「思想・良心の自由」に反することになるか?
思想・良心の自由は面従腹背の自由・悪魔の自由とも言います。
個人が心の中で思っていることは、いかなる場合でも侵すことは許されません。これに対して、言論・表現の自由は、個人の行為が外部に向けて発信されるため、思想・良心の自由と比較すると、一定の制約・留保がかかるわけです。(それでも、自由権の」なかでは一番制約は少ない。)
国旗・国歌に反対であることを教師が心の中で勝手に思うことは自由です。しかし、それが教育現場という公共性の高い場所で行為として行われると表現行為となり、一定の制約を受けることになると思います。
そこに決定的な意義を認めようとする人は
そうすればいいだけの話です。
ところが法による強制は、問題の次元が異なります。
そして、ある種抽象的な観念世界のみが
象徴という言葉で表現されていると考えるとしたら
あまりにも想像力に欠けているといえるでしょう。
また、教育現場であるからこそ独立的であることの
意味があるわけです。
およそ学問的精神の表れは、厳密な根拠の無い
集団的観念とは全く無関係に存在します。
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荒らすつもりは毛頭ありません。
いつもブログは楽しみにしております。
愛国心そのものは肯定しますが、
実は意図的に制御されやすく、そのことが
予期しない形で利用されうるということだけは
申し上げておきます。
今の日本の教育システムで、教育基本法(立法)か、文科省(行政)かどちらを改革すべきか?自分はどちらかといえば場当たり的な後者だと思います。
なお、私は地裁の判決理由弱いという指摘は同感です。法治国家なので、法律の文面どおりの運用は何より優先されるべきで、今回裁判官の主観が前面に出すぎだと思います。一方、いわゆる国旗・国家法が「起立を強制しない」といった国会答弁を経て成立したのが反故にされていることの方が問題だと思っています。そうした国民に平気でうそをつく国から愛国心を持つように教育されることへの反感を持ちます。
それを強制することは根本的に異なるわけです。
国家を解体に導くと考えるほうがそもそも何も
問題がわかっていないことを露呈しています。
また、体裁問題に帰着させるのは、事をあまりにも
陳腐化させてしまうでしょう。
それより、今は学校で校歌を歌わないそうですね。それこそ愛校心の欠如を感じます。さびしい。
今は学校で校歌を歌わないそうですね。それこそ愛校心の欠如を感じます。→そう思います。
指摘されています。教育水準が上がったにせよその傾向は
変わりませんね。
強烈な意志・理念の元に成立した国家ではありませんし
指導者階級をも相対化する確固たる思想があるわけでもありません。
そもそもそのようなものは日本では相容れません。
全体主義であり何もかもが一色で無ければ気がすまない、
そういう気質を根っこに持っているし、また違うというだけで
そのまま国賊であり、人間の屑扱いをする人々を現実に
知っています。
人を神と本気で信じきることが出来る国民にとっての
国旗国歌の扱いは慎重であるべきでしょう。
多くの政治家や役人、その多くは熱心に国旗を掲揚したり
国歌を大声で歌ったりしているわけです。
後ろめたいことをしているから、表面を繕う必要があるのでしょう。
国旗国歌の強要と真の愛国心とは何の関係もありませんね。
非国民的行為を巧みに覆い隠すという意味では害のほうが大きい。
そんな手間ヒマがあるなら、見て見ぬふりをしないで
巨額の赤字問題に寝食を惜しんで取り組めと言いたい。
それこそ本当の愛国心と言うものです。
小泉純一郎首相は22日、都側の控訴方針について「個人の考えも大事だが、社会性、協調性がいかに大事か。法律以前の礼節の問題に対して、教師がはっきりした態度を示さない方が問題だ」と支持を示唆した。さらに「学生が社会人になって国歌も歌えない、国旗に敬意も払わない。外国に行ったら変に思われる」とも話した。
変であることがなぜ行われているのかということは、
小泉さんには理解できないでしょう。
人の話は聞かない、己の考えだけが正しいというのが
彼の特徴ですから。
かなりうがった見方をすれば、利権の中枢というのは
戦前と戦後で連続しています。
国民の努力によって立派な経済大国になりましたが
利権の中枢はその力と地位を強固・安定化するため
血税を湯水のごとく使ってきました。
今までは平和主義で支持を集めてきましたが、
高齢化社会・少子化、財政破綻の危機に瀕するようになり
彼らはその力の源泉を失いつつあるどころか、
批判の矢面に立たされる可能性すらあるのです。
こういう状況は許しがたいのです。
彼らは現状を維持継続するために、おそらく
(あからさまに戦争をするというわけではなく)
紛争に首を突っ込むことでしょう。
これにより国内に大変な混乱が引き起こされるで
しょうが、そのように体制を組みなおすことで
財政破綻や高齢化の問題を潰してしまうだけでなく
肝心なのは、彼らが利権の中枢のまま繁栄し
ていられるということです。
http://www.kokuminrengo.net/2006/200602-tax-tnym.htm
法律の条文を読むと国旗は、日章旗、国歌は、君が代とする。としか書いてありません。強制力のあるなしについては何も書かれていません。
2 国旗・国歌は時代とともに変わるという意見について
例として南アフリカだけ出されても説得性に欠けます。また、侵略の象徴だったから変えるという意見もおかしいです。そんな理由で変えるのであれば、先進国は植民地支配をしていたわけだから国旗・国歌を変えなければならなくなります。
3 外国で国旗の強制が問題ありという議論があることや国旗を焼くことも表現の自由という判例があるという意見について
言論の自由があるのでそういった意見もあるでしょう。しかし、そのように考える人はあくまで少数派だということです。国旗・国歌に対しては敬意を払うというのが主流の考え方なのです。
外国の国歌は軍歌から転じてできているものが多く、内容も血なまぐさいです。それと比較したら、君が代の歌詞は穏やかですよ。
5 人を神と本気で信じきることが出来る国民にとっての国旗国歌の扱いは慎重であるべきでしょう。
キリストは人であり神でありますが、これは問題ないのでしょうか。
国旗・国歌に敬意を払うべきだと言うと左翼は軍国主義だと主張します。しかし、こういった主張をする左翼の「行動様式」は戦前の軍国主義者とそっくりです。きっと彼らみたいな人たちが戦前の日本を破滅に導いたのだと思います。
日の丸が国旗になったのは明治三年。幕末に海外商船が来るよう
になったため、国際法に準じて船舶に国旗を掲示しないといけな
くなったので、薩摩藩の考案した旗を取りあえず国旗に転用して
みました、、というだけですからね。
国歌に到ってはグレゴリオ聖歌の旋律とそっくりだし。
フランスの三色旗は自由・平等・博愛。米国の星条旗は独立の経緯。
ユニオンジャックは国の成り立ちと、国旗のもつメッセージを文書
化することが可能です。が、日の丸は上記の事実性のみでメッセー
ジを持ってないんですよ。メッセージに置き換えられない。
こうした歴史をきちんと踏まえておく必要がありますね。
国旗やら国歌を尊重させたいという発想の人が居るのは、個人の
自由ですから構いませんが、それに迎合しないという考えも同じ
レベルで尊重されなくてはいけない。
ましてや懲戒処分などという強制措置を伴うとなっては、何をか
況やです。退場すべきは石原慎太郎のほうですね。
総理や天皇自身ですら《強制してはいけない》というコメント
を明確に発していることを今一度ご確認いただきたい。
左翼と軍国主義を捻じ曲げて結びつけている方、歴史を知らなさ
過ぎますね。もう少し勉強しなさい。
あの紅白の旗には、依然として暗黒面が渦巻いていると思います。
戦前、革新官僚という名の左翼が戦争を推進したという事実があるのです。歴史を知らないのは、あなたのほうではないのですか。
当時の文部省の矢野重典・教育助成局長は、8月2日の参議院国旗・国歌特別委員会で、公立学校での日章旗掲揚や君が代斉唱の指導について「教職員が国旗・国歌の指導に矛盾を感じ、思想・良心の自由を理由に指導を拒否することまでは保障されていない。公務員の身分を持つ以上、適切に執行する必要がある」と述べている。また当時の小渕恵三首相も共産党の志位和夫の質問に対し「学校におきまして、学習指導要領に基づき、国旗・国家について児童生徒を指導すべき責務を負っており、学校におけるこのような国旗・国歌の指導は、国民として必要な基礎的、基本的な内容を身につけることを目的として行われておるものでありまして、子供たちの良心の自由を制約しようというものでないと考えております。」と国会で答弁している。
30年以上前から、このような光景は有りましたが、教師は退席していたと思います。校長は「団体行動を乱すとか、良識云々」とは表だって言わないし。だから問題も起こらなかった。反対教師が嫌がらせをして出席いるのか、校長が出席を強制して混乱を作っているのか?
杉浦法相が「私の地元ではこんなことは有りません」っていうけれど、此処は昔から管理教育で有名なところです。
形式的に誤解しようとすれば、できるかもしれませんが、
わたしのコンテキストからそのように読める人は稀でしょう。
超越的ということをキーワードに勉強してみてください。
敬意を払うことを問題にしているわけではないんですよ。
左翼が軍国主義であるとかまぁ、考えるのは勝手なのでしょうが
本気で議論をする(この場は不適当だかから
やめたほうがいいでしょうけれど)気があるのなら勉強しましょうよ。
これは教育、または学問の場だからこそ意味があると考えます。
学問の場は常に独立的であるべきなのです。
近衛首相の周辺に革新官僚という名の左翼が集まっていたのです。代表的人物が尾崎秀実です。後に近衛文麿は「元来、左と右は違うものだと自分は思っていた。ところが、その後ずっと見ていると、右翼と言ってもよし、左翼といって もよし、全く同じであることに気がついた。これは当然、私がもっと早く気がつくべきところ、まことに申し訳ない」 と天皇陛下にお詫びを言っています。
問題は高校までは、国民として必要な基礎的、基本的な内容を身につけることを目的に教育が行われていることです。それ故に制約がかかるのです。
例えば、教科書の検定制度です。国民として必要な基礎的、基本的な内容を身につけることが目的であるため、内容が偏ったものにならないように検定制度があるのです。そのような理由がある故に、検定は検閲には当たらないのです。
・「教育改革」「教育基本法改正」を主張するのは、財政問題から目をそらす目くらましだから、のっちゃだめと思います。
・「教育改革」に関するいろんな論点のうち、国家破綻の観点で重要度が高いのは、愛国心ではなくて、理系離れ対策だと思います。(将来も輸出で稼いでくれるメーカはどのくらいあるのか?)ただ、そうした考えを表明することすら、教育改革に力を入れたい与党に与しそうで、、、。
いさおさんの主張で行くと、財政問題以外の施策を行うと、全部目くらましになってしまいます。
キリスト教は契約制ですから、契約者には論理的に問題ないんです。
戦前(昭和初期)の天皇制は、肉体そのものを神としたことで明らかに異なります。神道とも違うと思います。
それと
>いさおさん
寧ろ国が進んで財政問題キャンペーンを行っているように感じるが?
学問・研究の自由は、普通は大学(の教官)のみに認められ、小学校~高校(の教師)には全面的には認められないとするのが普通の解釈です。
ですが、この手の政治的議論を長々と続けることは、このブログにはなじみません。そろそろ、本題に戻りませんか?
時期に該当します。革新には古い時代を打破し、来るべき社会を構築するという
意味を持ちました。革新は民主主義や自由主義、社会主義などの近代政治思想の
色彩を持つようになります。
が、1930年代に入ると意味合いが変わります。全体主義化していく中、左右を問
わず【革新】の自称を競い合うようになります。日中戦争を正当化するイデオロ
ギーを考案した昭和研究会や近代の超克参加者たちが「革新的知識人」と見なさ
れ、満州国の経済統制に関与し、企画院を舞台に国家総動員体制を推進した岸信
介、奥村喜和男、星野直樹、迫水久常などの官僚が「革新官僚」と呼ばれたよう
に、革新は全体主義のシンボルとなるのです。
≪右翼と言ってもよし、左翼といってもよし、全く同じであることに気がついた≫
という言葉がまさにそれなんですな(笑)
という事で、左翼=戦争を推進したというのは短絡思考に過ぎません。
それって単に雇用の確保を楯に脅されるって事でしょ?
敬意とはまるで無関係ですよね。
あ、そうか。要はやくたいもない脅しの論理に過ぎない、、
ということですな。よくわかりました。
説明するつもりがない事に説明を求めている。。。
教義を置いておけば、イエスそのものは神の子として信仰の
対象になることがあるでしょう。
そこの枠組みには当時のユダヤ教の制約と社会的な要請があったわけで
その出来事が宗教的に文書化されて、それが時代とともに
神格化されやすい土壌となったのでしょう。
ユダヤ教は極めて世界外的色彩の強い宗教であって
その信仰の根拠がどこにありえるのかははなはだ不思議では
あるのですが、キリスト教はその枠組みの入り口を
若干加えたような宗教であると理解しています。実際に
新たな契約が教義の基礎として成立しているわけですし。
キリストは特に後世に神格化されるようになりますが、
それはそれで抱える問題は大いにあるでしょう。
もう、面倒なのであとは勉強してください。
形式的に誤解すればとちゃんと書いたでしょう。
学問は教育の場の先にあるわけで、短絡的に分離しようとは
思いません。妥当であるとか正統的であるとか、
そういうものからも独立的であるというのは私の希望です。
被奴隷的支配未経験で尚かつ水耕稲作農耕民族との歴史的生存環境が育んだ「相互扶助での共存意識を持つ気質」の反映が我が日本国との観点からは「安全神話・愛国心」の語源解釈には、「我が日本国民の歴史的生存環境の検証」を前提とすれば、自由権的基本権概念を必要とする外敵庇護契約の当事者との観点から必要としている諸外国の愛国心」とは全く異なる事が理解できます 公立学校での「日の丸への敬意・君が代斉唱等への強制」も、「国民各自の健康で文化的な生活実現」との社会制度の一形態としての学校教育、との観点からの、是非の検証が必要です 愛国心は、「他人との共存意識・他人を愛する・尊重する心構えを指す」と解されなければ、人権抑圧目的の独裁体制へ奉仕するためのための主張、との誤解が生じ、「国民各自の愛国心高揚が不可能となって、我が国発展が阻害されてしまいます 今日の我が国産業界での①「我が国のみが世界で唯一、究極の効率的生産方式の安全神話を構築した理由②「安全神話の崩壊現象の増加傾向」も、掛かる意味の愛国心の欠落が、真の原因と、初めて理解する事が出来ます
「国家財政破綻SafetyNet」さんのブログは丁寧に書かれ、大変勉強になるのですが、愛国心の上からの注入についてのお考えはどうかと思いましたので、拙ブログの過去記事をトラックバックさせていただきました。







